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  <author_name>hojo_lec</author_name>
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  <blog_title>来 る べ き 書 物</blog_title>
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    <anon>日本史特講：古代史（14春）</anon>
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  <description>神農の方は、いわゆる天恵と位置づけられる考え方ですね。あるいは穂落神のように、あらゆるものの価値の源泉が天にある、ということを表明する言説です。一方の『淮南子』本経訓の内容は簡略で、高誘注によらなければ解釈の難しいところがあるのですが、文字が詐偽の心を生み出し商業の展開／農業の衰退をもたらすとの発想は、後漢の段階における社会問題を反映したものとみるべきでしょう。しかし、後に続く「鬼神哭泣」云々の記述からすれば、強ち無理な理解ではないのかもしれません。いずれにしろそこには、日本では『古語拾遺』の表明したような、文字に対する一種の不信感が見受けられます。この不信感の一方の足は、日常生活のなかで誰も…</description>
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  <published>2014-07-18 03:27:16</published>
  <title>レポートで扱おうとしていたテーマのひとつに、中国の文字創出伝説がありました。『淮南子』にいう「蒼頡が文字を作ると、天が穀物を降らせた」という記述と、「神農の時代に穀物が降って、彼がそれを人々に広めた」との神話がありますが、穀物が降る点では同じ表現なのに、ニュアンスがまったく異なるように思います。この相違は何なのでしょうか。</title>
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