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  <author_name>hojo_lec</author_name>
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  <blog_title>来 る べ き 書 物</blog_title>
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    <anon>超域史・隣接学概説III（17春）</anon>
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  <description>宗教や国家といった地縁・血縁を超越する集団が、個人を利用して自らの目的に駆り立てる際には、彼らが重い価値を置く人間関係に訴えてゆく方法を採ります。例えば靖国神社は、近代日本が神道を非宗教化する（それゆえに、信教の自由を超越して全国民が崇めるべきものと規定した）なか、その宗教性を一心に体現する装置として設置されました。同社は、幕末明治の内戦以来、国家のために戦死した兵士たちを祀っており、ゆえに一般市民の戦争被害者や、国家に反逆した死者は奉祀していません。西南戦争で政府に逆らった西郷隆盛などは祀られていませんし、逆に戦死した朝鮮や台湾など旧植民地出身の兵士は、本人や遺族の意向に関係なく奉祀されてい…</description>
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  <html>&lt;iframe src=&quot;https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fhojo-lec.hatenablog.com%2Fentry%2F20170508%2F1494727413&quot; title=&quot;近代以前の人々にとっての父祖の物語りは、自分のアイデンティティのようなものだったということでよろしいでしょうか。もしそうなら、中世の宗教戦争は、人々にとって、自らの依存する父祖物語りや族長物語りを絶対視したために起こったと考えることも可能ですか？ - 来 る べ き 書 物&quot; class=&quot;embed-card embed-blogcard&quot; scrolling=&quot;no&quot; frameborder=&quot;0&quot; style=&quot;display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;&quot;&gt;&lt;/iframe&gt;</html>
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  <published>2017-05-08 11:03:33</published>
  <title>近代以前の人々にとっての父祖の物語りは、自分のアイデンティティのようなものだったということでよろしいでしょうか。もしそうなら、中世の宗教戦争は、人々にとって、自らの依存する父祖物語りや族長物語りを絶対視したために起こったと考えることも可能ですか？</title>
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