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  <blog_title>『初期ノート』解説</blog_title>
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  <description>ここで「立場」主義者と呼んでいるのは、いわば教条主義のことで具体的には左翼政党（共産党とか社会党）を指しているのだと思います。マルクスやレーニンの言説を教典として信仰に近い無批判な忠誠を示すならそれは教条主義です。それに対して自らの体験を対自的に思想化しようとするわけですが、その思想化もまた停滞に陥ることがありうると考えているわけです。その内省の根拠にはおそらく戦争世代の文学者たちの姿があるのだと思います。高村光太郎にしろ横光利一にしろ体験を掘り下げて思想化した優れた文学者でした。しかしその思想も戦争のなかで戦争肯定的に飲み込まれていった。体験といい、その論理化といっても体験自体の場であるアジ…</description>
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  <html>&lt;iframe src=&quot;https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fsyoki-note.hatenadiary.org%2Fentry%2F20130824%2F1377331102&quot; title=&quot;しかし、この思想化が、一種のスコラ主義や停滞におちいつたとき、その作業といつでも訣れうるものでなければならない。思想が現実と逆立する契機は、いつも、どこにでも転つているようなものである。すなわち、わたしたちはいつも「立場」主義者とおなじ危険に、裏側から対面しているのである。（過去についての自註） - 『初期ノート』解説&quot; class=&quot;embed-card embed-blogcard&quot; scrolling=&quot;no&quot; frameborder=&quot;0&quot; style=&quot;display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;&quot;&gt;&lt;/iframe&gt;</html>
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  <published>2013-08-24 16:58:22</published>
  <title>しかし、この思想化が、一種のスコラ主義や停滞におちいつたとき、その作業といつでも訣れうるものでなければならない。思想が現実と逆立する契機は、いつも、どこにでも転つているようなものである。すなわち、わたしたちはいつも「立場」主義者とおなじ危険に、裏側から対面しているのである。（過去についての自註）</title>
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