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  <blog_title>『初期ノート』解説</blog_title>
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  <description>個我の生産物というのは、芸術のことといえると思います。しかし芸術というと生産活動の外にあるものという感じになります。しかし吉本のこの初期ノートの言いかたというのは、人間の生産活動というものをもっと拡大してとらえたい、そして芸術といわれている自己表現の活動もその生産活動の内に含めて考えてみたいという意味がこめられているように思います。もしそうなら、なぜ生産という経済の場面から芸術というものははじき出されてしまうのか、芸術という個我の内面の表出はなぜ経済の外側に出されて、そこで芸術だの文芸だのというジャンルに閉じ込められてしまうのかという疑問は、吉本の晩年まで貫かれて新しい歴史観の構想につながって…</description>
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  <published>2015-03-30 09:55:53</published>
  <title>何故にすべての人間は個我の生産物を持ち得ないのか。そして何故に個我の生産物を創り出さうとするものは、僅かな余暇のみを利用せねばならないか。ぼくはこの理由を主として社会制度の馴致された構造に帰せしめる。そして極く僅かな理由を、人間が生存するために働かねばならない最小限度の与件に帰せしめる。（断想Ⅶ）</title>
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