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  <blog_title>『初期ノート』解説</blog_title>
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  <description>初期ノートの別の個所に「僕は眼を持たない。眼なくして可能な芸術。それは批評だ」と書いてあります。批評というものは論理性であり、抽象性であり、観念です。目で見るとか手で触れるという五感覚でとらえた対象を観念の内部で抽象化していくことは、抽象化された観念だけで形成される領域を作っていきます。その領域の内部では、目（とか五感覚）は必要ではないことになりましょう。そうした観念的な思考に日夜没入している青年が、逆に見ることをふいに意識したときに、五感覚がとらえるいつも見ているはずの抽象化される前の世界が、なにか異質なものに感じられる。つまり普通の生活人の感覚とは逆になっているわけです。そういう逆転した異…</description>
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  <html>&lt;iframe src=&quot;https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fsyoki-note.hatenadiary.org%2Fentry%2F20160611%2F1465606565&quot; title=&quot;ひとは女性たちが建築の底を歩むのを視たことがあるだらうか。その如何にも不調和な感じを覚えてゐるだらうか。女性は視覚的実在であるのに反し、近代の建築群が抽象的実在であるためである。又僕は、濠と丸の内街の中間にある路を馬車が通るのを視たことがあつたが、それは如何にも不調和なものに感ぜられた。決して馬車が前時代的であるからではなく、馬が視覚的実在であるからだと僕には思はれた。（〈建築についてのノート〉） - 『初期ノート』解説&quot; class=&quot;embed-card embed-blogcard&quot; scrolling=&quot;no&quot; frameborder=&quot;0&quot; style=&quot;display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;&quot;&gt;&lt;/iframe&gt;</html>
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  <published>2016-06-11 09:56:05</published>
  <title>ひとは女性たちが建築の底を歩むのを視たことがあるだらうか。その如何にも不調和な感じを覚えてゐるだらうか。女性は視覚的実在であるのに反し、近代の建築群が抽象的実在であるためである。又僕は、濠と丸の内街の中間にある路を馬車が通るのを視たことがあつたが、それは如何にも不調和なものに感ぜられた。決して馬車が前時代的であるからではなく、馬が視覚的実在であるからだと僕には思はれた。（〈建築についてのノート〉）</title>
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