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「東二条院との仲も実際にはそれほど悪くなかったということですか」「悪くなかったとは言わないけれど、お互い大人だから、公的な仕事は感情抜きで対応した、ということね。そもそも後深草院と私の年齢差が十五歳で、あの方は後深草院より十一歳上だから、私より二十六歳も上でしょ。若くて超絶美人の私の存在自体が無茶苦茶目障りなのよ。美人は存在自体が罪なのね。あの方は気位が高いから基本的に私を無視していたけど、あの方…
先般の惟神プロジェクト第4弾『陰陽五行・神社参拝ナビ』に続いて、第5弾『用神開運・神社参拝吉日』を作成しました。 神社ガイドをしていると、こちらもよく尋ねられます。 「神社参拝は、いつがおすすめですか?」 そんなときは、いつものように、 「参拝できた日が大吉日ですよ」 とお話しさせていただいています。 伊勢神宮には昔からおみくじがありません。 かつて「一生に一度」と憧れたお伊勢参りは、それ自体が大…
表=顔=建前裏=心=本音羨む=裏(心)病む裏切る=相手の心を切る恨む=相手の心を見る裏悲しい=何となく心が悲しい裏淋しい=何となく心が淋しい
【八幡大空襲から81年】防空壕跡地・小伊藤山で最後の慰霊祭 1945年(昭和20年)8月8日。 終戦まで、わずか1週間。 当時、日本の工業の心臓部であり、鉄鋼生産の一大拠点だった八幡製鉄所と、その周辺を目標に、北九州・八幡の街を大規模な空襲が襲いました。 「八幡大空襲」です。 この空襲によって、約1万4千戸が焼損し、約2,500人が死傷したとされています。 あれから81年。 この記事では、2026…
『日本書紀』創られた日本 82 聖徳太子についての話9です 聖徳太子と仏教 『日本書紀』には 四天王寺を建てたのは 用明天皇2年の記述は 聖徳太子と仏教 前回は、『日本書紀』における聖徳太子と仏教について考えました。 『隋書俀国伝』に書かれた、遣隋使の使者による、有名な「日出ずる所の天子云々」の後に続く遣隋使の目的は仏法を学ぶためだという話に対応すために、聖徳太子の仏教関連の記述が作られたと考えま…
前記事で述べた通りだとすると、本願寺首脳部としては9月23日に信長が大阪より軍を返した瞬間、「大阪本願寺から脅威を取り除く」という目標を達成したことになる。 実際に和睦したのは11月上旬ではあるが、9月下旬から10月にかけては、戦さの帰趨を見極めていたのであろう。阿波三好勢の摂津上陸もあったし、うまくいけば信長に更なるダメージを与えられるかもしれず、そうなってくれれば一番いいのだ。 しかしそうはな…
薩摩硫黄島さん、2泊3日大変お世話になりました。また来れたらいいなぁ~♪ 今日の東京は一日晴れ。 最高気温は30度前後とそれほど高くはないのですが、 ここのところ、午後になると夕立になる日も…。 今週はバケツをひっくり返したような雨も続いて、地球の環境もずいぶん 変わったんだなぁ…と日々実感しております。 (千葉の皆様も大変だったことと思います。早期に復旧されることを願っております) genta-…
鹿児島県垂水市牛根麓に安徳天皇陵の伝承地がある。安徳天皇は寿永4年(1185年)3月24日に壇ノ浦(山口県下関市と福岡県北九州市のあいだの海峡)で入水したとされる。一方で生存説も根強く、安徳天皇が落ちのびたという伝説は全国にある。牛根の伝説もその一つだ。 伝承のあらまし 山の中にひっそりと 『三国名勝図会』では「皇子墓所」と 個人的に思うところ 伝承のあらまし 安徳天皇は平清盛の外孫にあたり、平氏…
観応3年(南朝年号正平7年、1352)の閏2月15日、関東において新田義興・新田義宗兄弟(ともに新田義貞の子)が蜂起しました。新田兄弟は、旧足利直義方で南朝に与するようになった上杉憲顕の助力も得、足利尊氏に決戦を挑みます(足利尊氏は当時鎌倉にいました)。 いわゆる武蔵野合戦の勃発です。 武蔵野合戦そのものは、足利尊氏の指揮よろしきを得て、短期間のうちに決着を見ます(新田の蜂起が閏2月15日、最終決…
・恐縮ながら、この度、『note』を開設しました。諸事情により当ブログで取り上げることができなかった、或る重要な出来事等についても書いております。 note.com 当ブログの実質的な「副読本」としてご一読頂けると、幸いです。この場を借りて、宜しくお願い申し上げます(追記:2026年8月14日)。 ・当ブログの記事等に大幅加筆修正した拙著『反オープンレターズ黒書vol.1 亀田俊和検証本』、 『反…
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